竹内文書の普及待ったなし!
竹内文書は、研究家たちの血のにじむような努力が実を結び、偽書のレッテルをはがす用意ができています。その内容は、現代社会の常識を超えるものです。勇気を持って受け入れましょう。
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United States of Japan ~上古~近世編~

大化の改新において、日本は、竹内文書にある日本の版図から大幅に狭くなっていました。それでも、国に分かれていたことは確かなことです。
本記事で取り上げる、近世まで日本にあった国の版図は、大化の改新のときに決められたものを基本にします。それは、竹内文書にある国のそれより細分化されていることに注目すれば理解が早まること請け合いです。
本記事でも、前回同様、北海道本島、本州、四国、九州を取り上げます。

国の分かれ方は、前回の記事の後半の表を見ながら説明するに留めます。

竹内文書にある国名大化の改新以降の国名
道路奥国陸奥(むつ)、出羽
→磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥(以上、明治元年に陸奥が分割)、羽前、羽後(以上、明治元年に出羽が分割)
天越根国(越の国)若狭、越前(こしのみちのくち)、加賀、能登、越中(こしのみちのなか)、越後(こしのみちのしり)、佐渡
野道路彦国上野、下野
吉道路国常陸、上総、下総、安房
武蔵津海国武蔵、相模
遠津海国伊豆、駿河、遠江、甲斐
伊勢津媛国伊勢、志摩、伊賀、美濃、尾張、三河
秋津根国大和、山城、摂津、河内、和泉
丹波国丹波、丹後、但馬
出雲国出雲、伯耆、因幡
吉備津根国播磨、淡路、吉備の国
→播磨、淡路、備前、備中、備後
→播磨、淡路、備前、美作(和銅6年に備前から分離独立)、備中、備後
飯依彦国石見、周防、安芸
大食作媛国讃岐、阿波
愛媛国伊予、土佐
白日国筑前、筑後
豊竹依国豊前
豊日国豊後
速日国肥前、肥後
奇日根国日向、大隅
建日国薩摩

分かれてできた国名は正史の通り、前(中)後、上下に分かれた国が多いのが特徴です。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
後半では、竹内文書にあった国が分かれ、どのような状態にあったかを説明します。
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大化の改新以降は国府が、奈良時代以降は国分寺が各国に設けられました。
例えば、武蔵国は東京都府中市に国府、国分寺市にその名のとおり国分寺が設けられました。
地名に残っている例はほかにもあります。越中の場合はともに富山県高岡市にあり、国府を表す地名は伏木古国府、国分寺を表す地名は、伏木国分です。

といっても、近代以降は、明治時代の地名の変更や、明治・昭和・平成を中心とする市町村合併の影響もあり、国府を表す「国府」「府中」や、「国分寺」の地名が目立たなくなり、全県地図を一目見てもどこに国府や国分寺があったか(国分寺は現存するものもある)分かりにくくなっています。

地名の変更例は、静岡市です。駿河国の国府は、静岡市葵区(葵区は徳川氏にちなむ)に置かれていました。「静岡」は明治になってできた新しい地名で、江戸時代以前は「駿府」とも「府中」とも言われていました。そのうち「府中」は「不忠」につながるとして忌み嫌い、「駿府」が強調されるようになりましたが、明治になると徳川ゆかりの地を表す「駿府」の地名が廃止され、賤ヶ丘(しずがおか)にちなんで「静岡」となりました。

市名に「国分寺」があるのは、前出の東京都国分寺市のみです(原則として2つ以上同じ市名にしない暗黙のルールがある)。国分寺市には、武蔵国分寺跡があります。
東京都の場合はさらにややこしいことに、国分寺の「国」の字のみを用いる市名、国立市もあります。こちらは国分寺に直接関係ありません。故・堤康次郎氏が名づけた「国分寺と立川の間」という市名です。

鎌倉時代になると、幕府が武士団の中心となりますが、各国に守護を置き、一応連邦制を形成しました。
この時代、平安時代よりも朝廷の影響が弱く、武士にとっては天皇不在でした。武士団同士の紛争が絶えなかったのもこの時代の欠点で、竹内文書的発想に反する時代の一つでもあります。

この守護-地頭の体制は、建武親政(本来は「建武新政」だが、本記事では、後醍醐天皇が直接政治に携わったため「親政」と記す)で一旦撤廃されますが、室町幕府が成立すると、各国に守護大名が置かれ、連邦制が一層強まりました。
その最たる例が、室町時代末期~江戸時代初期にまたがる戦国時代です。今の時代から見ると、戦国時代を代表する大名という意味で戦国大名ですが、古い家系の大名の中に、守護大名の位にこだわった大名もいます。それは武田晴信(信玄)で、甲斐国守護でありながら、後に信濃国守護にもなりました。同時期、もっと上の位、関東管領に就いたのが、上杉謙信でした。
関東管領や守護大名の位にこだわる大名がいたことは、当時の日本が連邦制だった証拠の一つです。

江戸幕府とて、中央集権ではありませんでした。具体的には、江戸幕府を連邦政府とし、各藩を行政の単位とする連邦制でした。首題の"United States of Japan"(日本連邦)とはそういうことです。
パリ万博に、江戸幕府と薩摩国が独立に日本代表として展示した例もあります。特に薩摩の展示の狙いは、それぞれ日本代表を強調する狙いがありました。「日本連邦」の特長の表れでした。

このように、鎌倉時代から江戸時代にかけて、武士による政治が産んだ「日本連邦」でしたが、明治維新によって、中央集権に戻ることになります。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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