竹内文書の普及待ったなし!
竹内文書は、研究家たちの血のにじむような努力が実を結び、偽書のレッテルをはがす用意ができています。その内容は、現代社会の常識を超えるものです。勇気を持って受け入れましょう。
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DATE: 2007/05/19(土)   CATEGORY: 1.5.2 安藤昌益
安藤昌益を発掘した狩野亨吉博士
竹内文書を偽書と断定し、後に撤回した狩野亨吉(かのう こうきち)博士。一方で、彼は埋もれていた江戸時代の農業指導者を発掘しました。

彼の名は、安藤昌益(しょうえき)。元禄16(1703)年生まれとされ、宝暦12(1762)年、60歳(数え年)で亡くなりました。
出身地で終焉の地でもある、秋田県大館市二井田(にいだ)の温泉寺に葬られ、没後の地元では「守農大神」と呼ばれていました。

今でこそ、在野の有志が研究会を立ち上げ、活動しています。昌益の年表も載っていますので、ここでは取り上げません。
安藤昌益研究会
しかし、日本で彼の名が広く知られるようになったのは、外交官、E・ハーバート・ノーマンの著書『忘れられた思想家・安藤昌益』(岩波書店)によります。
私の知る限り、日本の中学校までの教科書には登場せず、公務員試験(それも、国家公務員I・II種試験地方公務員上級試験)に忽然と登場するくらいです。私を含め、日本人として恥ずかしい限りです。

さて、なぜ昌益を取り上げたか。それは、竹内文書と並ぶ古史古伝『上記(うえつふみ)』の内容と思想が酷似していることです。

そもそも、昌益が生きていた江戸時代は、士農工商という有名な身分制度があった時代でした。その時代に、農耕に懸ける真心の大切さ、四民平等、環境の大切さを提唱したのです。
もっとも、その身分は、養子と大奥(または女中)経由の側室という2つの抜け穴がありましたが、ここでは取り上げません。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
なお、詳しいことは後半に書いてありますので、お読みいただけると幸いです。
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安藤昌益は、『自然真営道(じねんしんえいどう)』と『統道真伝(とうどうしんでん)』を著しました。
前者は本編92巻と「大序巻」をあわせて93冊、後者は3冊から成ります。
なお、後者は、昌益とその弟子たちによります。

これらを持っていた東京千住の橋本律蔵の家が明治32年に没落、書が売りに出されましたが、律蔵の知り合いの息子で古本屋を営んでいた内田氏が全巻を集めて、狩野氏に見せたといいます。
当時、狩野氏は第一高等学校校長で、後に京都大学教授に転身しますが、2年で辞職、以来、鑑定を生業として質素な独身生活を送ったといいます(この鑑定の仕事に関連して、竹内文書への批判が生じました)。

一人では費用が続かなくなった狩野氏は大正12年3月、友人であった吉野作造東京大学教授に話を持ちかけ、すべて東京大学図書館に売りました。
この年の9月1日に、関東大震災が発生、偶然に貸し出されていた12巻を除き、すべて消失してしまいました。
12巻を借りていたのは、三上参次東京大学教授でした。この12巻は、宇野正美氏が「もっともエキスの詰まったもの」と表現しました。
この12巻より、昌益の研究が本格化しました。

昌益ゆかりの秋田県のウェブサイトでは、「悪文」「自家製のことば」「言語表現の上での無茶者」と、なぜか、昌益の文章を酷評しています。昌益の文章を解読できたのも、狩野氏のおかげだといいます。
『百姓も同じ人間だ・安藤昌益』

なお、彼の自家製の言葉に対する解説は、長くなりますので、別記します。

ところで、戦前から現代になって証明されたことですが、町医者でもあった昌益は、次のように述べています。

 自然の気行を知らないで治療を行い、完治した者がいたとしても、それは医術や薬効のせいではなく、その人にそなわった自然治癒力が旺盛で病を圧倒し、自然に治癒したにすぎないのである。こうした患者は薬を用いなければ、もっと早く完治していたであろう。
 薬を用いたから、完治するのが遅れたのである。
 さらに虚弱体質の人の病人は投薬のために軽症は重症になり、重症の者は日をおかずに死亡する。
宇野正美著、『古代ユダヤの刻印』、日本文芸社(1997)


同じことは、戦前~戦争中に、地元熊本県を中心に多くの人に信奉された超能力者で天皇の本来の存在意義を見抜いた人物・松下松蔵も言っていました。
なお、松下松蔵は、弟子の一人の本城千代子女史を通じて、竹内文書研究者の一人の正氣久嗣氏につながっています。
さらに、塩谷信男医師を通じて、江本勝氏につながっています(追記:2007年8月30日)。
松下松蔵については、別に述べます。

治療に関してもう一つ。昌益は、現代の薬害事件にも通じる医療の病理を見抜いていました。

「今の医者は、貪り取ることしか考えていない。医者よ。あなたは本当に医者なのか。それとも薬屋なのか」
前掲『古代ユダヤの刻印』


これは、何も薬漬けの医療だけではありません。最新鋭の医療機器ばかり買い集めて訴訟対策をし、借金漬けになった病院の病理にも当てはまると、宇野氏は指摘しました。


それにしても、安藤昌益ゆかりの地は、俗に「キリストの墓」と呼ばれるイエス兄弟の墓(青森県三戸郡新郷村戸来。別記予定)をはさんで、東西に2箇所あります。
昌益は、羽後国二井田に生まれ、陸奥国八戸で町医者を営み、再び二井田に戻りました。
また、秋田県は、狩野博士の出身県でもあります。
これは偶然ではないと思うのは、私だけでしょうか。

安藤昌益に関するほかのウェブサイトでは、Googleなどの検索エンジンで探すのも手ですが、本記事よりリンクを貼りました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
以下のサイトでは、竹内文書の汚名返上と共に、以下の思想を持つ方を集計しています。
  • 安藤昌益の思想を信じる方、実践したい方
  • 狩野亨吉博士の見方が変わった方

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